近代日本復古主義への批判

大日本帝国こそを本当のあるべき日本だというのは、現実から目を背けているに過ぎない。
それは現実を虚構とすることで、今まさに沈みつつあるこの国から目を背けている。そればかりでなく、むしろ、沈めることに加担している可能性すらある。
今のこの日本国は大日本帝国の成れの果てである。いくら歴史のifを持ち出したとしても、それはifでしかなく、現実には今が大日本帝国の結果である。
この日本国で唱えられている理想は、大日本帝国時代の反省を糧として作られたものだ。その理想を喰らうことはすなわち、大日本帝国時代すらをも省みないことに他ならず、それは大日本帝国への背徳すら言える。
故に、まず、私たちはその理想を固守しなくてはならないだろう。
さて、かつての大日本帝国の最も素晴らしかった点について語ろう。
それは他でもない、アジアの列強であったことだ。それは確かに脱亜入欧の価値観と共にあった。しかし、同時に多くのアジアの国々に希望を与えてもいた。そして、かつての日本人たちはアジア人としてほかの列強とはやはり一線を画していたのだ。
確かに、中国そして朝鮮半島での日本の所業は西欧植民地主義となんら変わらないものであっただろう。
しかし、大東亜戦争における東南アジアでの日本の行動、そして敗戦までを含めたあの一連の流れはそれらに終止符を打った。
事実、大日本帝国はヨーロッパに差別されていた。だからこそ、反差別の旗印にもなっていたのだ。
大日本帝国も含め、日本国という国は差別に対してそれをNOと言える国であるべきだ。
しかし、今では、一部の過激な近代日本復古主義者達によって、日本はむしろ差別の激しい国だと思われている。これはむしろ、大日本帝国時代からの美徳を崩す行為に他ならない。

ここまで、歴史的理念観の点から、多くの近代日本復古主義の態度を批判した。しかし、そもそもこれからの時代において、近代日本復古主義は決定的に幻想的であると言わざるを得ない。
それはその時代の価値観が、今の時代と全く噛み合わないからだ。
近代日本、いや、近代植民地帝国主義がその趨勢を握っていたあの時代。その基本的な価値観は成長と発展にあった。
そして、未だに多くの人がその夢を見ている。あの人々の関心がより良くなる社会に向かい、エネルギーとなり爆発していた時代を。
確かに魅力的なものであった。
しかし、現実を見よう。既に成長の伸び代は少なく、発展する未来は見えない。
もはや、成長と発展を求めて人々のエネルギーが爆発することは無い。
それは次のようなところから始まる。
まず、社会が細分化されたこと。
ネット社会の広がりは、社会を思想的に分断した。かつて、社会は思想に関係なく、横断し、そこで、思想は揉まれ、ひとつの方向へと形作られた。さらに根底には成長の価値観があった。しかし、今では、それぞれの思想は、それぞれの思想に起因する社会で先鋭化し、全社会を横断しない。
さらに、これに合わせて、思想の多様化が進んだ。
これによりますます成長一辺倒の価値観がその方向において分裂し、もはや成長を求めることが難しくなっている。
つまり、近代日本復古主義は既に時代の趨勢から取り残されており、その価値観はどうしても古くなってしまっているのだ。

最後に、私たちは、価値観を変容させなくてはならない。
その価値観は「よりよく」では無い。
「今」が永遠に続くことを求める価値観が必要なのだ。
既に近代は終焉を迎えようとしている。その価値観から根本的に覆さなくては、誰の思想も時代に取り残されるだろう。